あるいはウナギイヌ

サラリーマンです。小説を読んだり、アイドルのライブに行ったりします。映画もある程度観ますが、『あるいは裏切りという名の犬』はまだ観てません。

普通でありながら、同時に普通ではない

 大西巨人神聖喜劇』を昼休みに読みはじめた。仕事が一段落しているので、ちょっとゆっくりできる店に行って、食後のコーヒーなどを飲みながら読みはじめたのだ。

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

 めちゃくちゃおもしろいではないか。
 とりあえず現状、作品のなかで起こっているのは、1942年の1月、対馬要塞の重砲兵聯隊に補充兵役入隊した東堂太郎二等兵(語り手)が、新兵教育の期間中、上官に理屈っぽく口答えをしている――というだけのことなのだが、その理屈のわかるところとわからないところの配分が絶妙で、90ページくらい読んだところで完全に「おれ、こいつ、好き」と思った。
 こういうタイプの人について何か言っている文章があったよな、という連想から引っ張り出してきたのがこれ。

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

 村上春樹ホールデン・コールフィールドという少年のパーソナリティについて考察する部分だ。

村上 病理的なことはよくわからないんですが、これだけ弁が立って、頭がきれて、それでいて躁鬱症的な、あるいはまた分裂的な気質の人っていうのはなかなかいないだろうし、そういう意味では、やっぱりどう考えてもホールデンを「普通の人」と考えることには無理があります。でもサリンジャー自身にとっては、当然のことながら普通です。サリンジャー自身の目から見れば、それは自分なんだから、自分であるというのは、自分にとっては普通で自然なことなんだろうと思う。(中略)ホールデンの行動はいささか常軌を逸していて、とてもついていないところがあるけれど、彼の展開し主張する「心情」にはひとつひとつ、奇妙なくらい説得力がありますよね。つい「うん、そうそう」と肯いてしまうところがある。つまり「普通であること」と「普通じゃないこと」の便宜的ボーダーラインみたいなものが、どんどん不明瞭になっていくわけです。
 そういった「普通でありながら、同時に普通ではない」という二面性というのは、この小説のキモとしてあると思いますね。(後略)

村上春樹柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(pp.41-42)

 つまりおれのなかで東堂太郎はホールデン・コールフィールドだったのだ。でも「普通でありながら、同時に普通ではない」という条件に合致しない語り手って逆にそのほうが少ないのでは? という気もした。ちょっと冷静になろうか。